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한하운의 시 세계

  • 발행년도
    2002년
  • 발행처
    경기대학교
  • 저자
    최길순
  • 학위논문사항
    (석사)학위논문 경기대학교 교육대학원 : 국어교육 2002
  • 링크
    http://www.riss.kr/link?id=T8945889
  • 첨부파일
초록 (Abstract)

ハンハウン氏は1919年, 咸鏡南道, 咸州郡で生れ, 56歲の時, 他界した韓國で有名な詩人である. 彼が詩を書きはじめたのは16才(1936) 頃からである. 彼は詩人として『韓何雲詩抄(1949)』, 『麥笛(1955)』, 『韓何雲詩全集(1956)』, 『定本韓何雲詩全集(1966)』など4篇の詩集を發行した. 彼が詠んだ詩篇を全部合わせると97篇になる.
多くの人人はハンハウン氏を「癩者の詩人」と言われている. 何故ならば, 彼の詩は大部分が彼の癩病者の生と關係が深いのである. 彼は12歲頃, 癩病にかかれてから40才まで惱んできた. 幼い時, 彼の夢は祖國の畜産に貢獻したいのであった. しかし, 癩病は彼から夢をすっかり消えさせた. でも, 彼に詩人の道を步けるようにさせたのもやはり癩病だった. 癩病が彼の生の樣相をすっかりが變わせたのである.
ハンハウン氏の文學精神は日本の小說家の北條民雄氏のそれと比べられる. 二人が癩病者として文學をしたからである. 北條民雄氏が自沒, 厭世, 病理に對して首肯する姿を取る文學精神ならハンハウン氏の文學の精神は自分自身を否定した後またその否定を否定する. それから再び否定する冷嚴な姿を取る. そんな姿から客觀性に基づいてリアリズムの文學を作り出している. 筆者はあんな評判をもらっている彼の詩の世界を分析してから詩の樣相はどの樣になっているのか明かしてみようとした.
ところで, ハンハウン氏の詩をろくに理解するためにはまず彼の特等な生涯を解らなければならないと考えた. なぜならば, 彼の詩には彼の體驗, 癩病, 歸ることができなくなった故鄕などが詩の主な素材になっていると考えたからである. それで, 筆者は彼の生涯を一一調査して見ようとした.
彼の生涯を解るために筆者はハンハウン氏が自分の半生を書いた本『わたしの悲しい半生記』を中心にして色んな資料を求めて熟讀した. その上に彼の色色な作品はいつ創作されたのか, 創作について何か特別な背景とか動機はあるか無いか判るのが大切だと思ってそれを調べようとした. 調べはハンハウン氏が自分の詩を解說した解說集の「黃土みち」をはじめ, 多くの關連書を調査した. その結果, 彼の人生について色色な情報を得ることができた. 彼の詩の創作の時期や多くの詩編が特別な創作の背景とか動機を持っているのをわかることができた.
その後, 筆者はハンハウン氏の詩を分析し始めた. ハンハウン氏が書き殘した詩は全部97篇である. 分析の作業はあまり時間がかかるし, 詩人が自分の作品の解說をして殘した解說集があるのが負擔されるし, 困ったところが少なくなかった. でも, 分析の作業が終わった頃には97篇を一一にしたのがよかった氣がした.
ハンハウン氏の詩を分析した結果, 彼の詩は五つの樣相として分けられた. 彼の詩の五つの樣相を詩が書かれた順番に整理して書き留めると下のようである.
一つは, 癩病のせいで自分の人生は順調ではないだろうと思いながら不安な心を現した一連の詩である. そんな詩としては1936年, ハンハウン氏が金剛山で療養する時, 彼は訪れた情人のRに會ってから詠んだ<落花流水>がある. そして, 1940年代, ペイキンで留學する時, 中國を旅行しながら書いた, <楊子江>, <人骨笛>などがある.
二つは, 1945年頃から癩病があっかされて病狀が外觀に現れるとハンハウン氏は「自分は人間ではない. ただ, 空にある雲のような存在だ」と考え始める. 癩病で顔まで崩れ落ちた後には人間閉業の宣言をするまでに至る. あの時, 書いた詩編が<はる>と<何雲>である. 間もなく, ハンハウン氏は母と愛人のお陰で生きの志を甦らせるようになった. 彼は「私は癩病を治して生きようぞ」そんな志を表わした詩として<靑い鳥>, <生命の歌>, <海邊で呼ぶ海と波と人類の永遠の歌>, <三防>, <雨が降る道>などを殘している.
三つは, 1947年の夏からハンハウン氏はソウルの町で乞食みたいな生活をする. その時, 自分の目に見えるソウルの人人とか癩病者として體驗したこととかを詩で表わした一段の作品がある. 言わば, <指のひと節>·<いのち>·<突き當たった道>, <明洞の町>, <開けない門>などである. こんな詩は自己卑下や世界から疎外された氣持を表わしたものである. 一方, この頃には自省の姿を現した詩も何編も詠ん出居る. <生>, <罰>, <私>, <私は癩病者じゃないです>, <業果>のような作品である. こんな詩からハンハウン氏は自分の不幸せはみんな自分のせいであると認定している. 自分が癩病者になったのは業報打と思う. 天からの罰だと思う. ですから自分の不幸せは仕方がないことだと考えいる. それでこれらの詩は自己嫌郡の情を表すとか自分自身を虐待するようなのイメ-ジが感じられる.
四つは, 懷しさを現した詩である. ハンハウン氏が懷かしがっていることは<母>, <情人>, <故鄕>で見れば母と情人のRと故鄕らしい. <麥笛>で詩人は自分が本當に願うのが何か暗示している. それを見ると, 彼が根本的に懷かしがっているのはあれよりも人間らしい生だと思う. 癩病を治して健康な人人といっしょに行きたいことだと思われる. しかし, 彼の病は治る希望がないから彼の懷しさはいつも後悔や絶望で終ってしまう.
五つは, 自分自身を克服した氣持を現す詩と自然と親しくなった抒情を表現した詩である. ハンハウン氏の癩病が治ったのは1959年である. 28年の間, 惱んできた癩病が陰性判定を受けたのである. その後から彼の詩は驚くほど變ることになる. 癩病を素材で書いた詩も以前のように自己嫌郡とか自分自身を虐待するような姿は消えている. 寧ろ, <凶月>, <明洞の町-3>, <みみずく>の詩篇からでは自分自身を克服した余裕が見られる. それで, 詩の表現は一層明るくなっている. <踏花歸>, <昌慶苑>では詩人が自然と親しくなっていたのを分かることができる. また, <虹>, <觀世音菩薩像>などの詩を讀んでみればこの頃には彼が人生というのはいったい何かという人生の問題にも關心が深かったと考えられる.
結論にハンハウン氏の詩の世界は彼の癩病に基づいているのだと言われる. いつか, ハンハウン氏はある雜誌で自分が詩を書く理由を話したことがある. 「詩はひとつの道だというのを私は誠に認識する」. 彼がどんな姿で詩を見たのがわかる言葉である. また, 彼は「詩は私には第二の生命である」と告白したこともある.
結局, ハンハウン氏が詩を書いたのは生きている證據を世界に見せるものだったと筆者は思っている. 詩を詠むのは彼の生の甲斐になったのである.


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